仏事はありがたい機会

「仏事は、亡くなった方がその身を挺して、みんなを結び付けてくれるありがたい機会である。」
とは、かつて親戚の法事で、お寺さんから聞いた言葉です。

正直、「そういうもんかな~?」と、それを聞いた時には漠然と思っただけでした。

時を経て、この頃よくある身内の仏事で、しみじみ「そうだな~」と、感じています。

昨日は叔父の葬儀がありました。

叔父は、数年前に会った時とは打って変わってやせてしまっていました。
ホントにこれがあの叔父さんなのか?と、なんだか、叔父の死が現実のものとは感じられない自分がいて・・・。
でも、目の前では涙している叔母やいとこがいて・・・。

不謹慎かもしれないけれど、
なんだか叔父の死が実感できないまま、ご葬儀が終わってしまいました。

斎場で、焼きあがるのを待っている間には。

子どものころにはよく一緒に遊んだ、いとこ達。
大人になってからはほとんど出会うこともなくなってしまって・・・。
地元に住んでいるいとこでも、めったに会うこともなくなっちゃいましたし。

そんなみんなも、葬儀とあらば、西から東から、集まって来るわけです。
久しぶりに出会って、どれが誰やらよくわからないくらいに、おっさんになっている人や、おばさんになっている人。(^^♪

間違いなく私も、おばさんになっちゃった人の内ですが・・・。(^^♪
そんなみんなで集まって、斎場で待ってる間にご飯を食べながら、みんなでいろいろ話をして・・・。

悲しいご葬儀なのですが、強制的にこうやって親族が集まる機会を作ってくれるありがたい場なのだな~と、やっと感じることができました。

私には、この叔父との思い出の中で、ありがたく思ってきたことが1つあります。
ある助言をしてくれたことがありました。
「和恵、お前はこれはもうやめろ。」

この叔父以外、だれもそんなことは言いませんでした。
でも、その時、言われて初めて確かにそうだなと感じました。
私がやるべきことじゃないな。
そう思って、その分野のことから離れました。

あれは良い助言をもらったと、感謝しています。
いつかそれをありがとうと言いたかったです。

けれど、数年前、最後に会った時にはもう叔父は、私のことが分からなくなっていました。
だから、言わずじまいです。

昨日、叔父に向かって感謝の言葉をかけることはできませんでした。
棺に入っているのはあまりにやせてしまって別人のように見えて、その叔父には思えなくて。

ただ、親や祖父母、おじやおば、親戚のみんなに囲まれて私たちは育ってきたんだったな~。
そんなことを改めて感じることができました。

なんだか、温かい気持ちになれたご葬儀でした。

叔父さんの体はなくなっちゃったけど、あっちの世界から、また見てくれるんだろうなー・・・。

「たのんまっせー」と、心で思うと、

「おう!任せろ。」
返事が聞こえる気がします。