2017.02.26
母親は特に、自分のお腹で育てたものだから、子どもは「自分の子」のような気になっている。
っていうのが、そもそもの間違い。(笑)
だって、自分のお腹に宿りはしたけど、それは宿っただけであって、自分が作ったわけじゃない。
今日は心臓作って、明日はどこを作って、・・・なんてことは何にも考えてないのに、知らない間にちゃんと人間の赤ちゃんに出来上がってた!
・・・っていうわけでしょ?(笑)
私たちは、自分で生きてるのではなく、大いなるものの力で、生かされている。
カミサマという言葉が好きな人は、その「大いなるもの」のことをカミサマと呼べばいいし、仏様が好きな人は仏様と呼べばいい。
呼び方はどうであろうとも、私たちは自分の力で子供を作ったわけじゃないし、自分の力で育てているわけじゃない。
その大いなるものに、生かされて生きている。
子供は、全身で親に何かを教えてくれている。
できの悪い子はできの悪さを苦しみながら、親に何かを教えてくれている。
不登校になった子は、苦しみながら、親に何かを教えてくれている。
「愛情表現が足りなかった。」「我が子の力を信じていなかった。」と、何かがあったら気づくことができる。
子供に導かれながら、その灯りの方に進んでいく。
そうやって私たちは向上していける、ありがたい存在が我が子だ。
それに気づかされ、何かあっても、「ああそうだったか」と、ありがたく受け止め、ありがたく示された道を歩いて行く。
そうすれば、自然に子供は本来あるべき素晴らしい姿を現してくれるもの。
これは、育児の教科書を読んでいるわけじゃなく、私の体験だ。
一時は担任の先生に見放された子だった。
「ある程度のところまではご家庭でご指導ください」・・・つまり、こんな物わかりの悪い子は、教えられないってことだろうか?
なんて冷たいことを言われちゃったんだろうと、悲しかった。
私が教えてみても、確かに、勉強はできなかった。「これ以上どうやって説明したらいいんだ?」というくらい丁寧に説明しても、理解できない。
「できない子って、こんなにわからないものなのか」って、愕然とした。
そして、こんなにわからなかったら、さぞかし学校の授業が面白くなかろうと、かわいそうになった。
でも、私にはその子の良いところがいっぱい見える。勉強できなくても、他にいいところがいっぱいある。なら、それでいいじゃないか。学校の成績だけがすべてじゃない。
だから、一所懸命にその子の素晴らしさを見つめ続け、良い言葉をかけ続けていた。登校することさえ困難だった時もあったけど、だんだん明るくなってきた。やる気もちょっとずつ出てきた。
ちょっとずつ、ちょっとずつ・・・。
・・・そしたら、高校へ入るころには、成績さえも何とかなっていた。(笑)
みんなが偏差値の高い学校へ行かなくても良い。その子にあった学校へ進学して、そこで花を開かせればよい。
それぞれ別の学校へ進んだけれど、その学校で頑張ったら、それでいいじゃない?
その子の個性を信じて認めれば、本来その子が持っている無限の可能性が開けてくるから。(笑)